2007年08月26日

岡田以蔵の発見。

岡田以蔵という人物は幕末史の中でも異彩を放ち続けている。
多くの暗殺事件に関わり、また残った資料も乏しい人物であるにも関わらずだ。

彼の事を書いた文章というのはそれほど多くはない。
もっとも、きちんと書かれたのが土佐勤王史であることは間違いがないと思う。
明治維新後、土佐勤王党は復権して、その勤王の歴史を編纂した。
その本の中で、岡田以蔵という人物は徹底的に痛罵されている。
それどころか、土佐勤王党血判書からは名前が消された可能性すらある。

彼が何故、そこまで勤王党に嫌われたのかは明らかになっていない。
土佐勤王党を壊滅に追い込んだ、自白があったとか、
或いは、拷問の斉、子供のようになきじゃくったなどなど、
まるで志士とは認めないといいたげな文章ばかりが目立つ。
果ては、酒色におぼれていただとか、頭が悪かったなどなどだ。

暗く、暴力を愛する、薄汚い人斬りのイメージが今も多くの小説などにも反映されている。
そしてそのダーティーなイメージに多くのファンや、或いはアンチが生まれている。

けれどもその岡田以蔵が唯一、ひょうきんなイメージとして語られている資料がある。
今も本屋に並ぶ、勝海舟の「氷川清話」がそれだ。
勝海舟の護衛についた以蔵が勝を暗殺に来た浪士を一刀両断にする。
勝海舟は人を斬る事を以蔵にいさめる。
ところが、以蔵はあっさりと、
「けれど、私が斬らなければあなたの首はそこについていません」
なんて答える。
勝海舟は、思わず答えを失ってしまう。

別にひょうきんじゃない話だと思う人もいるかもしれない。
けれども前後の文章群を読みつづければそれがどんなに楽しげに語られているかがわかる。
実際、勝海舟は時の大臣だろうが総理だろうが、ボロクソにこきおろしている。
言葉を俺が失う事なんかないんだぜ!と言わんばかりだ。
そんな中、昔の武士は、覚悟が決まってたぜ!なんてぇ、話の中にポツンと現れる。
あれ?以蔵の暗いイメージじゃないぞ??この話は??といった具合だ。
デビッド・宮原は、この以蔵を発見してこの作品を書くことを思い立った。
人斬り以蔵ではなく、岡田以蔵の発見だ。

政治的な意味での暗殺だけでも9件も発覚しているけれど。
この話にもあるように、人斬りと呼ばれる男たちは相当斬ったようだ。
当時は、一攫千金を狙ってのニセ志士などが京都にはたくさんいて、
浪士と呼ばれる偽名を語る輩などは毎日の様に斬られていたという。
その政治的に暗殺したと思われる相手を見るとここに大きな矛盾が発見される。

土佐勤王党である岡田以蔵は。
当然、政治的な暗殺の相手を、佐幕側や、安政の大獄に関わった人にしている。
その岡田以蔵が、勝海舟の護衛などするはずがないのだ。
また、神戸海軍塾(海軍操練所と併設された勝海舟の私塾)の名簿にも名前がある。
尊皇攘夷を歌っていた、土佐勤王党最強の刺客が、どういうわけか幕府側の開国主義者の弟子になっている。
そしてその橋渡し役はやはり海軍塾塾頭の坂本龍馬しか考えられない。

バカな男が、果たして、海軍塾に入るだろうか?
人を斬るしか能のない、酒色におぼれた男が、勝海舟を護衛するだろうか?
軍艦奉行勝海舟を斬れば全国に名が行き渡るのに。
しかも以蔵は最終的に土佐勤王党と運命を共にするのである。
まるで矛盾しているとしか言い様がない。


デビッド・宮原はその謎を作品を通して少しずつ解き明かしていった。
そしてその発見からIZOが生まれた。


近年。
岡田以蔵が勝海舟より贈られた短銃が発見された。
日本刀を隼のように速く振ったと言われる人斬りには余りにも似合わない品だ。
私物の為、限定期間でしか後悔されないという。

まだまだ岡田以蔵の真の姿は発見され続けるのだろう。
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2007年08月27日

土佐の身分差別

幕末と呼ばれる時代をいつからかというのは実は学者によって違う。
黒船来航からだという人もいれば、安政の大獄からだという人もいる。
桜田門外の変からだと主張する人もいれば、天保の改革からだという人までいる。
中には世界史的な意味合いから、蒸気機関の発明からだとか、植民地時代からという人までいる。
それぐらい、実は幕末というのは大きく時代と連動している。
決して、どこかで途切れる事があるような時代ではない。
中国のアヘン戦争だってオランダ人から情報が入っていたのだ。

いや、もっともっと古く辿る事だって可能なのだ。
例えば、幕末維新で大きく力を発揮したのは、関ケ原の戦いの西軍なのである。
毛利候の長州藩、島津候の薩摩藩、そして、長曾我部氏遺臣の、土佐の郷士たちが中心となった。
惨敗を喫して、不遇な処置を受けた者達の子孫が東軍の大将、徳川家の幕府を滅ぼしたのだ。
これは歴史の皮肉でもなんでもなく、きちんと繋がった事象だ。

歴史の教科書に乗っていた言葉を覚えているだろうか?
「一領具足」という言葉だ。
この言葉こそ、長曾我部氏由来の家臣たちのことを指している。
ようするに普段は畑仕事をしている。
その畑の傍には、常に、具足と刀を置いている。
半農半兵のモノタチこそ、最強と恐れられた土佐の長曾我部氏家来衆だった。
土佐という土地は古くは、刑場だったという。
京都を追われた罪人が、海を渡り、山を越えて、隔離された土地こそ土佐だった。
今も残る八十八箇所などには古代遺跡などもあり、古い土地である。
そういう罪人たちが集まる古来からの神域を治めたのが長曾我部氏だった。

関ケ原で破れた長曾我部氏は滅亡する。
代わりに土佐に入ったのが山内一豊。
近年、NHK大河ドラマでも話題になった。
山内は掛川藩六万石から、急に土佐二十万石へと出世したという。
そして、何よりも土地の長曾我部遺臣を恐れた。
半農半兵である、遺臣たちは、農民となったり、叛乱を繰り返していく。
やがて出来たのが、厳しい戒律の元に支配する、郷士制度だった。

更にその上士と下士という身分差別だけではなく。
細かく細かく、下士の中でも、身分が区別されていった。
日傘は贅沢だから禁止、高下駄は雨の日であっても履いてはいけないなど、
生活レベルでも、細かく細かく、戒律が決められたという。

武市半平太は、郷士の中でも最も偉い、白札郷士。
岡田以蔵は、郷士の中で最下級の位である、足軽だった。
ちなみに、のちに三菱を起こした岩崎弥太郎は郷士株を売ってしまった、地下浪人だったという。
足軽ともなると、農家よりもずっと貧乏だったという。
白い飯などほとんど口にすることもなく、
雨の日は、わらじがいたむからと、裸足で歩いていたそうだ。
他の藩では観られない、厳しい身分差別の最下級に以蔵はのたうちまわっていただろう。

事実。道場にすら通えない。
金がないだけじゃなく、どこも足軽など入門させてくれなかった。
足軽は、刀など使えなくていいという考え方だからだ。
上士は上士だけの道場、郷士は、富裕なそうしか通えないというのが一般だった。
以蔵は、木刀を自ら削り、野を走り、宮本武蔵に憧れて、自ら剣術を身につけたという。
そんな最下級の以蔵を入門させてくれたはじめての道場が武市半平太の道場だったという。
そして、以蔵の剣の才能を見抜き、武市は以蔵に足軽としては破格の待遇を与えた。
江戸への剣術修行だけではなく、九州方面への剣術修行の旅にも連れて行ったという。

土佐の維新四天王といわれる4人。
武市半平太は白札郷士。
坂本龍馬は富裕な商家の親戚であり、
吉村寅太郎、中岡慎太郎は、庄屋の出身だ。
土佐の郷士の中でも恵まれていた4人だといえる。
経済的に身分は低くても自立できていたのがこの4人だ。
一説によれば、この4人以外は米だけの飯を京都に行くまで口にした事がないとさえ言われる。

負けたから不遇になった。
長曾我部の遺臣たちは身分差別という形で300年もの間、怨念を募らせていった。
そして、古くからの刑場であった歴史が、半農であった歴史が、
自分たちは幕府の家臣ではなく、天皇の直属の家臣であるという思想を育てていった。

今も世界にはたくさんの差別が残っている。
彼らが戦った相手はそんな差別だったのだろうとおいらは空想する。

以蔵が本当に斬りたかったのは。
人間を差別する心だったのだと、空想する。
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2007年08月28日

幕末は難しい。

NHKの大河ドラマの視聴率でランキングを作ると、幕末作品は大抵下位に甘んじるという。
その理由を戦国時代などとは違って合戦が少なく、また議論が多く、ドラマでは難解だからだという。
近年放送されていた「新選組!」もDVDの売上は良かったが視聴率は低かったそうだ。

何が難しいかといえば、まずは言葉の問題がある。
今回の再演に当たって。
改訂稿を出す斉も、一番神経を注がれている場所だ。
尊皇攘夷だ、勤王だ、佐幕だ、開国だ、と、やたらに難しい言葉が出てくる。
こうして漢字で書けばなんとなく意味は通じるけれども、
実際、口から音にして発せられる言葉だと何がなんだかわからなくなったりする。
その上、政治の状況は混乱しているのである。

例えば。
「勤王」の反意語が「佐幕」と思われている。
つまりは、勤王とは、我々は、天皇陛下直属の武士であるという宣言である。
また、佐幕とは、我々が幕府の武士であるという宣言である。
ところが政治的に観ていくとやたらに難しい状況だったりする。
例えば、勤王の頂点は当然、天皇なのだけど、時の孝明天皇は佐幕論者である。
その上、佐幕のトップ、時の征夷大将軍は、勤王なのだ。
トップ同志は共に、天皇を、幕府を、尊重していたという矛盾がある。
そうではなくて、尊王でありながら佐幕という事は十分に考えられることだ。
何故なら、社稷を守るのが天皇で、その天皇に指名されて徳川家は幕府を起こしているからだ。
本来、「佐幕」の反意語は「討幕」という事になる。
「勤王」の反意語は「奸族」になるのだろうか?天皇家に弓弾くモノになる。

反意語で並べていくのならば。
「攘夷」 の反意語は「恭順」である。
よく、「開国」だと言う人がいるけれど、「開国」の反意語は「鎖国」だ。
攘夷派、恭順派などと言われれば、若い侍が攘夷派になるのは目に見えている。
征夷大将軍とは、元々、夷を征する偉大な将軍という意味で、
夷を攘うという意味の攘夷とは、将軍の仕事だった。
開国と鎖国というすみわけ方なら実に簡単な事だ。
貿易をするのか、しないのかだけだし、そもそも鎖国政策は天皇家ではなく幕府が制定したものだ。
攘夷と開国とを反意語と捕らえるとたちどころにわけがわからなくなる可能性がある。
勝海舟や坂本龍馬は、開国攘夷であったと想像できる。
決して、開国攘夷という言葉でも矛盾はないのだ。
夷とは、つまり、侵略者の事だ。
漢字を解体すれば、弓を持つ人だとすぐにわかる。
侵略者は攘うのが、当たり前だけど、侵略しないのであれば貿易すればいい。
実際、オランダや中国とは幕府も貿易を続けていたのだから。

他にも難しい言葉がある。
漢字で書けば、「老公」なんて言葉はなんとなくイメージがつく。
まぁ、言葉のイメージほどは老いていない。
ようするに、隠居したかつての殿様の事だ。
幕末期に活躍した大名の殆どがすでに大名の権限を家督相続している。
薩摩藩の島津久光などは、大名になったことすらも実はなかったりする。
ローコーって言葉は、その藩の隠居して、それでも大きな権力を持つものの通称になる。
隠居したといっても、30代や40代だったりする。

難解といえば難解だ。
まるで歴史の授業や、古語の時間のようで頭が痛くなる気がする。
ところが実質はそうでもないんだぜっておいらなんかは思う。
実際、幕末期に活躍した多くの志士達はエリートばかりでもない。
本などもそこまでたくさん読める時代ではない。
漢字など、当て字に近い手紙が多数残っていたりする。
つまりは、そこまでの知識がないものたちがけんけんがくがくと議論を重ねていた事になる。
単純に歴史の流れだけを見ると、実は意外にわかり安かったりする。

おいらは個人的に。
坂本龍馬がそこまで頭が良かったとは思っていない。
非常にバランス感覚に優れていたのだって思ってる。
勝海舟はものすごく天才だけれども、やっぱり幕末期に一番、普通の人だったのだと思う。
そして岡田以蔵は、そこまでバカだったとおいらには到底思えない。
どんな時代でも、もちろん現在でもいい。
どこにでもいるような一人の若者だったとおいらには思えて仕方がない。
少なからず、スポーツ青年であり、開国が大事なのかもしれないと理解できるだけの頭があった。

幕末は難しい。
大河ドラマでは中々幕末作品をやることはないだろう。
それでも、舞台では幕末作品が繰り返されている。
最近、幕末作品を演じる劇団が増えてきた。
前方公演墳が始めた頃なんか、数えるほどしかなかったのに。

若者が一瞬の生を放出させる。
それが、舞台では逆に難しいという評価ではなく、面白いという評価に繋がっているのだろうなぁ・・・。
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2007年08月29日

その他の人々。

劇団前方公演墳には名物となっているキャラクターがある。
その名も男ABCD。
要するにその他の人々だ。
ミュージカルで言えばバックダンサーで、映画で言えばエキストラか?
こいつに光を当てちゃったのがデビッド宮原だ。

その黎明期。
一番最初に斬られ役が出てきたのが「IZO」だった。
人斬り以蔵を舞台化するには必然的に斬られ役が必要だった。
ただ、まだその頃には、斬られ役にも一人一人名前はついていた。
お互い名前を呼び合い、何度も何度も斬られていた。
何度も斬られる事すらギャグにしちゃってた。

そして「また冬が来て〜IZO2~」にて。
初代男ABCDが生まれたのである。
メンバーは、織田稚成、菊地智哉、溝口茂樹、成田血糖値。ABCD順。
何故、当時PASHIRI,現在バックドロップスの菊地が入っているのかといえば。
これにはちょっとした逸話があって、こうなったのであった。
本当は本隊の4人の予定だったのだけれども。
菊地だけはみだしちゃったのとw
高杉役を本隊でWにすることになったのもあってこうなったのだ。
初代を決める時は、ものすごい話し合いが行われていたのを覚えている。
結局、高杉が決まる前に、俺がやるよ!と言ったメンバーになったのだった。
ちなみに当時パシリも公演をしたのだけれども、この4人はパシリ側にも出演した。
そして、当時所属していた後輩の斉藤君の母親に。
「頑張って名前をもらってね!」と言われて、織田君が激怒しておったのを覚えている。

なんせ、いまや初代は伝説となった。
実際、それ以降の作品では必ずといって良い程、メンバーが代わっても登場する。
アンケートでも、以蔵の次ぐらいに大人気だった。
なんせ、出て来ては斬られるだけの男ABCD。
それが、もうハチャメチャに面白くなってきちゃうのだ。
芝居の嘘を巧みについたひどいキャラクターだ。

そして面白いことなのだけれども。
この初代のメンバーたちは。
妙にこの初代メンバーについて、コダワリ的なものがある。
・・・驚くほど思い入れが強かったりする。
菊地なんかには、最近、忙しいなら、無理して出ないでもいいんじゃないか?って言ったんだけど。
絶対に出たいと言い張るのである。
織田君と菊地は作品が決まった時点で、いよいよ初代だな・・・などと呟いているのである。
どんだけだよ!とも思うが、その後に繋がるキャラクターを作ったのはやはりこの男達なのだ。
定着するキャラクターを作るのがどれほど難しいことか考えればすぐにわかる。

そして。
今回の再演でこの初代男ABCDは完全復活する事となった。

まぁ、初めて出てきた時のインパクトは既にもうない。
なんせ、殆どの作品で出てきちゃうんだから仕方がない。
この際、名前があってもいいんじゃないか?って役にまで無理矢理最近はABCDにしてたりもするし。
考えてみればもう6年間も登場しつづけている現在は余りにも違いすぎる。

それでもどうしても期待してやまないのである。
何故ならおいらもこの4人こそ、最強だと信じているからである。
良く見てみるといい。
劇団内から出たお笑いコンビのザックバラン、インストール。二組のボケがいるのだ。
言ってしまえば、加藤と志村がいるということだ。
その上、高木ブーも、ダレとは書かないけれどもいるのだ。
こんな奴らの中にいると、何故か、ロックバンドの彼の普通なテキトーさが笑えるのだ。
いかりやさんはいないけれど、ツッコム人は何人もおるってわけだ。

まだ観ていない人。
覚悟するがいい。
初代の。
初代のすさまじさを!!
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2007年08月30日

殺陣

劇団前方公演墳には作家が3人いる。

・・・なんて書いてしまったら語弊があるとは思う。
作家は間違いなくデビッド・宮原しかいない。
それでもおいらの中ではスタッフの中に3人も作家がいてくれるという思いがある。
一人は音楽の吉田とおるさん、もう一人は殺陣師の荻野英範さん。
何故、作家なんだと言われれば、この二人は間違いなく創作をしているからだ。
この二人が劇団に創作してくれた様様な事は本当に財産だ。
デビッド宮原はもちろんゼロから台本を書くわけで。
音楽だって、殺陣だって、その台本を下敷きにしているといわれるかもしれない。
確かにそれはそうなのだけれども、演出意図を超えて、新しいエッセンスとして創作してくれてる。
おいらはいつもそう思っている。
とおるさんの音や、おぎちゃんの殺陣がなくてはうちじゃない。
おいらはデビッドさんを含めたこの3人をなんちゅうか信頼して、そして、尊敬して、アニキ的に思ってる。

とおるさんの音楽については後日書こうと思う。
人斬り以蔵と言えば、やはり、まずは、殺陣の話からだ。

劇団前方公演墳の台本には実は旗揚げの頃から立ち回りがあった。
最初が時代劇だったというのもあるし、それはどうしても必要なものだったのだと思う。
おいらが参加した吉宗暗殺でも、短いながらお庭の者と次郎長一家の立ち回りがあった。
それにしてもドシロウトである。
ちょっとかじったことがある人がいても、その程度じゃどうにもならない。
おいらも実は稽古したことがあったけど、全然、今やってるのと違ったものだった。
そんな最中、デビッド宮原が、岡田以蔵の物語を持ってきたのだ。

殺陣と書いて、タテと読む。
それをやらなくてはいけない状況になった。
兎に角、今読んでも、立ち回りのト書きがものすごい事になっている。
注釈付で非常に細かいのだ。
右に避けて水平に・・・うんぬん。
細かく書いてある。
兎に角、そういう風に書かないと殺陣師がいなけりゃ出来なかったからだ。

その次の作品が決まる前に。
おぎちゃんはやってきた。
ヒーローMONOという作品。
とおるさんの紹介で、おぎちゃんが殺陣をつけてくれる事になった。
ヒーローMONOだから、現代アクション。
それでも教わってみると、全然、今までと違ったことになる。
そして、ついに「また冬が来て〜IZO2〜」にて、初めて刀剣を使った殺陣をすることになるのだ。

おぎちゃんは、おぎちゃんの師匠、おやっさんまで連れてきてくれた。
武士の歩き方、座り方、刀の持ち方、置き方、腰への挿し方。
教わった事はもう1つや2つでは済まない。
覚えたくても覚える事が多すぎて忘れちゃう事もしばしばだった。
おぎちゃんもアクション俳優で、殺陣師なんて殆どした事がなかった。
だからおやっさんを呼んで、色々アドバイスも受けていた。
おやっさんは、荻野が言うなら・・・って、なんでも教えてくれた。

そして本番。
信じられない事が起きた。
土曜の夜だったような気がする。
以蔵の大立ち回り、決め台詞を言った瞬間。
客席から拍手が起きた。
そんな事、今までなかったから、本当にビックリした。
劇団が新しく生まれ変わった瞬間だったような気がする。


もう1つ後日談がある。
千秋楽の日の朝。
実はとんでもない事がおきていた。
おやっさんが、客席で腕を組んでいる。
おぎちゃんが何故か刀を握ってる。
おぎちゃんの先輩の久保さんまで刀を握っている。
そしてそのステージ上に、おいらと佐藤君がいた。

台本上に龍馬暗殺シーンやりたい的な事をデビッドさんは書いていた。
けれど、結局、ボツになったはずだった。
それを急に千秋楽で復活させると言い出したのだ。
しかも暗殺者はプロのアクション俳優たちである。
正直、見えないほどのスピードなのだ。

そう。実際に本番でやったのだ。
千秋楽だけ。
そのステージだけ、それは実行されたのだ。
ちなみに、おぎちゃんの刀を鞘で受けたら鞘が粉々になって木片がおでこに刺さった。
全然、止めてないじゃん、この人!!って驚いた。
本当に殺し屋の顔をしていたんだぜ。
その日につけてその日にやるなんて、滅茶苦茶だ。
一歩間違えれば大怪我だ。
それなのに、何故か、ドシロウトの小野寺と佐藤は大丈夫!とおやっさんが太鼓判を押しちゃった。

今回はさすがにそのシーンはない。いまのところ。
龍馬の舞台をやっちゃった後だしね。
どんなシーンになってるかはお楽しみに。
それでもこないだおぎちゃんに会ったら。
また、やろーぜー。俺、出るよーーー。
・・と、訳のわからないことを言っていた。

いまや前方公演墳に殺陣はなくてはならないものの一つになった。
中には、殺陣を見ているだけで涙が出てくるなんて芝居もおいらたちはやってきた。

その最初のきっかけの以蔵の再演が始まる。
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2007年08月31日

劇中音楽

劇団前方公演墳の最大の特色の1つがオリヂナルの劇中音楽である事は誰もが認めている。
まるでそれは映画のように、毎公演ごとにテーマ曲があるんだよ。
旗揚げからずっと、吉田とおるさんが手掛けてくれている。
主催のデビッド・宮原がバンドをしていた頃のメンバー。
今は、アンダーグラフのサポートや、コンドルズのメンバーをやりながら。
多くのアーティストに楽曲の提供や、レコーディングディレクターまでやってる。
プロのミュージシャンだ。

おいらが参加した頃は、少しずつ仕事が増えている真っ最中だった。
それでも毎公演スケジュールを確保してくれて。
音響ブースで生でピアノを弾いたりしていたんだよ。
普通、劇団の音響さんは、ようするに音響操作、PAさんなのだけど。
うちは、ミュージシャンがそのまま音響ブースにいたんだな。
劇場の音響担当の人が珍しいなぁってっていつも驚いてた。

ZIGZOってバンドでサポートで活躍している時期に「IZO」が公演される事になった。
いつもだったら、稽古を見て、曲を考えるのに。
この時は忙しくなってきていたし、岡田以蔵ってイメージだけで曲を作るってとおるさんは宣言した。
おいらは今でも覚えているんだよ。
もう本番も間近になって、とおるさんがIZOの曲を持ってきた日のことを。
どんな曲か誰も知らなかった。確かデビッドさんも知らなかったと思う。
その曲が流れたんだ。

それまでだってもちろんすごいいい曲だった。
でも、なんか、IZOのテーマには、おいら、圧倒されちゃったんだな。
オーケストレーションを初めて使ったからだってとおるさんは言うけれど。
とにかく、キャッチーで、すぐにメロディーを覚えてしまう曲で。
そして、何よりも、とおるさんが、岡田以蔵という人物を音楽で表現したってのが。
なんか、ちょっとしたストリングスの音からも伝わってきたんだ。

そして何かが弾けた。

今の劇団では毎回の事になってきたけれど。
この時、初めて、クライマックスでは音が流れっぱなしになったんだよ。
その前も、ピアノがポロンと流れつづけている事はあったけれど。
テーマ曲がクライマックスに流れつづけたのはこの作品が初めてだった。
それは、すごいすごい大変な事だったんだ、初めてのときは。
だって、その音での表現もめいっぱい出したいじゃないか。
だから、アンプのギリギリ耳障りじゃないレベルまで音量を上げたんだ。
でもそれじゃぁ、今度は台詞が聞こえなくなっちゃう。
だから、台詞を言うタイミングで、ぴったしゲージを下げる事が必要になる。
とおるさんは役者のイキに合わせて、ミキサーのフェーダーをミリ単位で操作するようになった。
それはもう、ピアノの演奏と同じ、リアルタイムな演奏のようだった。
今の劇団では信じられないでしょ?
音楽が流れていないクライマックスだなんて。
でも、本当にそうだったんだよ。

おいらが、ああ、とおるさんとセッションしたなぁって初めて感じたのが。
「また冬が来て〜IZO2〜」だった。
それまでの、吉宗の江戸中が火事じゃからの音が入るきっかけとかもあったけど。
この作品で初めて、とおるさんときっかけを打ち合わせたんだよ。
最後の最後の台詞のところでさ・・・。
面白かったのは、本番中にとおるさんが走って音響ブースから降りてきてさ。
あそこのキッカケ、やっぱこっちにしよう!!って言って、また走って戻って行ったんだぜw
無線も使わないで、いきなり本番中にきっかけが変わるんだもん。
そりゃ、セッションだなぁって感じてもおかしくはないさ。
今日は完璧だったスネ!!なんて二人で言ったもんだw
懐かしいなぁ・・・。

IZOのテーマ曲の時に。
初めてアンケートに、サントラを出して欲しいってコメントが載った。
あれはなんか、おいらも嬉しかったんだよなーー。
そうなんだよ!この劇団の見せ場の1つなんだよ!聴いて思い出してくれよ!!って思ったなぁ。
とおるさんのファンの輝夢地さんってお客様はわざわざ島根から来てくれていたんだ。
懐かしいなぁ。

ZIGZOのとおるさんを見てさ。
いつか一緒のステージに立ちたいって思った。
なんせ、かっこよかったんだから!!
一回、紙芝居は出したけどねw
まぁ、あれはご愛嬌だもん。
そうじゃなくていつかどこかで同じステージに立ちたい人のトップの人だ。
明日のライブではとおるさんとバンドをやってるクワGさんも出るんだよなー。
とおるさんもこっそり観にきたら、飛び込みでIZOのテーマでも弾いてくれないかなぁw
時間差でのレコーディングは一緒に出来たんだけどさ!

今は音響ブースに毎ステージいれないぐらい忙しくなったとおるさん。
とおるさんにとってもIZOは思い入れのある作品なんだって聴いてる。
もちろん、メインは芝居だよ。
でも、その芝居を盛り上げるために最高の音楽がある。
音楽に負けちゃうような芝居はできないね。

オープニング。
IZOのテーマで鳥肌を立ててください。
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2007年09月01日

トモダチ

IZOも。坂本龍馬シリーズの舞台が終わった後だった。
イラクでの戦争が起きたりして、いやな時期だった。
おいらは、「トモダチ」という曲の歌詞を書いた。
今日、劇団のファンが多く集まるイベントで
おいらのバンドLittleSadisticDoorsがアンコールにて披露した。

おいらが詩を書いて、織田君が曲を書く。
おいらは詩を書く時に、言葉のリズム感なんかを考える。
幕末作品で一貫して坂本龍馬を演じたおいらは、土佐弁のリズムの歌詞を書きたかった。

自然、龍馬が以蔵に話しかけるような詩がどんどん出来ていった。
おいらのいつかいなくなっちゃった親友への思いと。
飛行機に乗っかって、神様を信じたままビルに突入したテロリストと。
そして、幕末の日本、京都の町でテロを繰り返した岡田以蔵を思って書いた。
まるで当たり前のように、詩はすらすらと出来て行った。

織田君はこの曲をフォークソングとして持ってきた。
それをおいらが珍しくアレンジした。
ここは、戦争を意味している間奏なんだよ・・・とか、そんなつたない説明でさ。
そうやって、あの曲は出来上がっていったんだ。

岡田以蔵の舞台の直前に。
その舞台を愛してくれるお客様の前でライブをする機会が来た。
そんな日が来ると思って書いた曲ではないけれど。
当たり前のようにそんな日がやってきた。

歌っててどうにも泣けてきた。
ずっと我慢しながら歌ってた。
目の前にいるお客様の仲にも泣いているお客様やこらえているお客様がいた。
それだけでいい。
そうなんだ。そういうことなんだって思う。
おいらは、台詞や歌詞を少しだけいじって、特別版で歌った。

とても不思議な感じだ。
以蔵も龍馬も、おいらの中でいつの間にかトモダチになってるんだ。
武市も。桂さんも、西郷さんも、高杉さんも。
不思議なぐらい、トモダチになってる。
これはきっと演じたからなんだって思う。

ライブハウスのステージの真ん中で。
トモダチに向けて歌った。
ぐっと近寄ってきた。
また、あいつらが、ぐっと近寄ってきたのを肌で感じた。

この感じがわかるだろうか?
そんな状態でおいらは稽古にすぐに向かうんだ。

舞台の頃には。
もっともっと、トモダチになっているだろう。
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2007年09月02日

以蔵は強かったか。

人斬りと呼ばれた剣士たちは間違いなく強かったと思われる。
その中でも、以蔵は群を抜いて多くの暗殺に関わっている。
それ以外にもニセ志士を斬ったり、或いは勝海舟の証言など人を一刀両断するほどの力があったという。
馬上の佐久間象山を斬った河上彦斉の実力は疑い様もないけれども、
い蔵に関しては本当に強かったのか?なんて言っている人がいるのも確かだ。

それは一つは、首を締めたり、地蔵担ぎと呼ばれる刀剣によってではない暗殺もあったり。
或いは、正式にどこそこの道場での免許皆伝や認可状を貰った形跡がないことから来ている。
実際、武市の道場でも恐らく正式な門下生というよりも武市の下男に近い存在だし、
武市と共に桃井道場に行っても、なんの免許も貰っていない。
武市とともに回った吸収武者修行でも、そういった話は聞いていない。
もちろん、経済的な理由などもあるのだろうから一概には言えないけれど、
完全に当時の剣術の流れからは外れた位置に存在しているのが大きな理由の一つだ。

構えすら独特である。
後ろの足に重心を残して前の足をぶらぶらさせていただとかの証言がある。
また、隼のように剣先が早かったという。
つまりは、以蔵の剣はオリヂナルであったという証言だ。
実際に、山の中で自分で作った木刀で練習していたとか、
野良犬を斬って、人斬りの練習をしたなんて風説も残っている。
もちろん、そのどれが本当で、どれが伝説なのかはさっぱりわからないままだ。

剣術というとよく勘違いされてしまうことなのだけれども。
今のスポーツの感覚でどうしても考えてしまう所がある。
例えば、ボクシングでもプロレスでも今の剣道でも良いけれど、
基本的に1対1で戦う。
けれども、当時の練習する剣術というのはまったくそういうものではない。
合戦をイメージして創られた剣術というのは基本が大勢VS大勢なのだ。
だから、今の柔道に近い組討だとか、空手に近い当身まで全てを総合した格闘術だった。
漫画なんかを見ても道場で1対1で戦っている場面がよく出てくるけれど、それはわりに嘘だ。
もちろん、そういう練習もしているし、実際に道場破りなんかへの対策もあるから重視していたけれど、
免許皆伝ともなると、組討などのやり方まで覚えなければいけない。
当然、寝技や関節技まであった。
坂本龍馬などは、柔の方が得意だったという話だってある。

また練習は、竹刀に始まり、木剣、そして歯引きされた鉄の剣、最後に真剣という段階がある。
今も残る流派などはある程度の段を取得するまでは真剣は抜かせてももらえないそうだ。
抜くだけで、一歩間違えれば指が落ちるのだから当たり前ではある。
竹刀も当時の幕末期に発明されたもので、それまでは、木刀による稽古が一般的だった。
もちろん、竹刀でも防具をつけていないと大怪我をしてしまうことがある。
木刀ともなると、死に至ることも珍しい事ではなかったという。

ただ今で言う学歴的な部分を江戸の道場などは多分に含んでいたようだ。
つまり江戸のどこそこの道場の免許があればハクがつき、出世もしやすくなる。
実際、当時の偉い人はほとんどが免許を持っている。
吉田東洋だって直新陰流だし、勝海舟は本当に強かった形跡があるけども持ってる。
だから、どうも金で入門して、ある程度の時間を経れば貰える認可状のようなものもあった。
流石に免許皆伝ともなると相当難しかったみたいだけれども、
それでも、宗派によっては乱発していた形跡がある。

以蔵はどうもそういう道場剣法にあてはまる人間ではなかったようだ。
包丁で魚を切るのだってきちんと歯を当てなければ切れない。
ましてや、長い真剣で人を斬るのは非常に困難なことである。
竹刀は円筒形だから歯を当てるという練習にはならない。
そんな中、以蔵は勝海舟の目の前で一刀両断にしているのだから、
やはり実力を疑うのは間違っているとおいらは思う。
間違いなく強かったというのがおいらの結論だ。

以蔵が座っている。
そこに志士が集まってはな詩を始める。
どこそこに住む誰々はけしからんという話をしはじめる。
以蔵がそっと立つ。
そして話が終わる前に以蔵が首を持ってきたという。
そんな早業など作り話としか思えない。
それでもどうにも、おいらには真実のような気がして仕方がない。
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2007年09月03日

以蔵の失敗談。

以蔵にもいくつかの失敗談がある。
記録に残っている最初に刀剣を使用したといわれる本間精一郎暗殺や与力暗殺なんかもそれだ。

本間精一郎暗殺では、一説によると刀が折れたと言われる。
それが本当なのかどうかはもちろん、相変わらず資料が乏しくてわからないままだ。
ただ、伝説が作られたであろう元の証拠のようなものが残っている。
京都の本間暗殺現場。
実は、劇団員の何人かとおいらはそこに行った。

そこには見事に壁に傷が残っている。
本間暗殺に関わった何者か、もしくは、本間自身の刀剣が木の壁を削った後が。
日本刀は世界一堅いと言われているけれど、堅い分、非常に折れやすいという側面がある。
あれを見れば誰かの剣が折れたという話が残ってもおかしくないと思う。
実際に、今でも京都に行けば観れるはずだ。
他にも寺田屋に行けば、柱に刀が当たった跡や、鉄砲玉の跡があるし、
蛤御門にも、たくさんの銃痕が残っているままで驚いた記憶がある。
その中でも、本間暗殺現場の跡は、妙に生々しかった。

恐らくはその余りにも数が多い岡田以蔵の暗殺に誰かが生み出したエピソードだと思う。
何かの小説で、壁の傷を見て、今も以蔵の刀の傷の後だという伝説を聞いた作者が、
刀が折れたというエピソードを作り上げたのだと想像する。
そうでなければ、実際、刀が折れたという証言が残っていてもおかしくない。
それともおいらの知らない所で残っているのだろうか?
本間暗殺について、土佐での取調べで口を割ったのは以蔵だと聞いているけれど・・・。
田中新兵衛の刀や、或いは、本間自身であっても何もおかしくはない。

また、与力暗殺での失敗談もある。
どうも以蔵はクセなのかなんなのか。
人斬りの前なのか後なのかは判然としないけれども、自分の名前を名乗るクセがあった。
名前を聞けば相手が恐れて逃げたり、隙を見せたのかもしれない。
或いは、それまで身分が低かったのに、有名になるにつれて周りの対応が変わったのかもしれない。
それが天誅であれば、名前を名乗って堂々と斬るべきなのだという思想があったのかもしれない。
理由まではまったく分からないけれど、覆面までしての暗殺でも以蔵は名乗ってしまったらしい。
武市にこっぴどくしかられたという逸話が残っている。
もちろん、それも本当なのかどうかまではわからない。
この失敗で土佐勤王党を除名されたなんて説もあるぐらいだけれど・・・。

ただはっきりと残っているのは勝海舟の証言だ。
勝海舟の護衛で、相手を斬ったときは、「土佐の以蔵と知ってのことか?この弱虫め!」と言っている。
それで、さんざんばらに逃げた暗殺者がいたというのだから名乗っていたのはあながち嘘ともいえない。
「名前による強さ」というのも以蔵はどうも強く意識していたのかもしれない。
考えてみれば、人種差別ではなく、身分差別の中に生きていた男だ。
同じ肌の色、同じ目の色、同じ人間であるにも関わらず、家名だけで差別されつづけた。
名前の持つ力というのを誰よりも理解していたとしてもおかしくはない。

ただ、完璧な暗殺者ではなかったというイメージを作りやすい男なのだと思う。
暗殺者といえば、例えば、忍者だとか、お庭番だとか、裏目付だとか。
どうしても完璧で、何時の間にか毒を仕込んでいたり、そっと殺していくイメージがある。
それがどうもこの岡田以蔵に関してだけは、どこか間が抜けたようなイメージがずっとある。

思うにやはり「馬鹿だった」という証言がどうしてもそういう方向に持っていくのだろう。
本当に頭が悪かったのかどうかは前述のようにおいらは疑問だけれど・・・。
剣が強くて、それでいて、頭が悪い、そんなイメージが何時の間にか定着している。
残念ながら、頭の悪い人間はそこまで強くなれるわけがないのだけれど。
どうしても、イメージの固定化みたいなものをしたいのだろう。
ここまでいくと、すでにキャラなのだと思う。
経済的な理由から、本もそれほど読んでないし、歴史などもそれほど知らないという、
知識不足を馬鹿と言っているだけなのだから、そろそろそんなイメージは捨てるべきだと思う。
そもそも龍馬さんだって、馬鹿だと証言が残っている。
それでいて、外国語を多少は理解して、日本人で初の議会制を提唱している。
当時の武士の常識における「頭が悪い」って言葉は、常識とされた学問内だけの話なのだ。
まぁ、それは現代の学歴的な部分においてもおおかた外れてないかもしれない。
知識ばっかあって理解力に欠ける有名大学生など今も腐るほどいるのだから。

けれども。
以蔵の本当の失敗はこんなエピソードではないだろう。
捕まった事かもしれない。
或いは、海軍塾をなんらかの理由で出て行ったことかもしれない。

おいらにはそう思える。
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2007年09月04日

もう一人のIZO

未だに岡田以蔵の写真として本なんかに発表されている人物像がある。
幕末期の写真はちゃんと調べないとインチキなものがある。
先日、おいらの両親が旅行に言ったら、フルベッキの学校の写真が宮部物屋に飾ってあって、
相変わらず平然と、志士達の集合写真であると書かれていたそうだ。
相変わらず本物と信じている人が多いのには閉口する。

以蔵の写真の間違いはそういう意図的なインチキとはいささか違う。
実は幕末当時、もう一人のオカダイゾウが存在したのだ。
その名も、岡田井蔵。
まったく洒落にならないぐらい同姓同名なのである。
しかも人斬り以蔵と遠からずの距離にいたのだ。

彼はなんと、勝海舟が咸臨丸に乗ってアメリカに渡った時に同乗していたのである。
だから、写真が残っちゃっているのだ。
その後、同姓同名の人斬りが、警護につくのだから勝海舟も驚いただろう。
残念ながら以蔵の写真は残っていないのである。
でも考えてみれば当たり前なのがわかる。
実際、当時の以蔵よりも上の立場の武市も久坂も写真など残っていない。
既にこの直には写真機は日本に上陸していたけれども、
そもそも尊皇攘夷を標榜する志士達にとって西洋の文化など相容れない物なのだ。
京都で尊皇攘夷の熱が高まっていた頃に異国のカメラを生業に生きることは不可能だ。
それこそ、天誅の対象になったっておかしくない。
以蔵が活躍した頃の京都にはカメラなんてものはなかったのだ。
有名な近藤勇の写真だってあと数年経たないと撮影なんか出来るわけがないのである。

しかし・・・。
そういえばその後の岡田井蔵の話はよく知らない・・・。
一体、どんな人で、どんな運命を辿っていったのか。
アメリカを知る武士は重宝されたはずなのだけれど・・・。
そして人斬り以蔵をどう思っていたのだろうか?

気になってしまうのである。
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2007年09月05日

オカマタゾウ

もう一人のIZOを書いたついでといってはなんだけれども。
気になって仕方がない人物がいる。
やはり、岡田以蔵とそう遠くはない人物であり。
手繰っていくと、新撰組とまで繋がっちゃうような人物。
その名も、オカマタゾウ。
オカマだぞう!なんて洒落はともかく。
岡又蔵が、その人だ。

この名前は龍馬ファンでも通の人しかわからないだろうと思う。
佐々木多門という名の海援隊士の兄だという。
そんなもん、わかるわけねーーーだろーーーっ!ってなツッコミもあるかもしれないけれど。
実はこの名前が浮上してきたのは龍馬暗殺と関係があるのだ。
それで、おいらの中で気になって仕方がない人物になってしまった。

・・・というのも龍馬暗殺の資料の中でも比較的新資料にこの人物の名が登場するのだ。
坂本龍馬が暗殺された現場、醤油屋近江屋にて、なんと昭和50年代になって手紙が発見されたのだ。
いや、それまでも見つかっていたのだけれどきつくこれをあけることは禁じられていたらしい。
それが、急にご子孫が歴史的資料として提出してくださったわけだ。
そしてこの手紙に、なんと、龍馬暗殺についてのクダリがあったわけである。

その手紙はきちんと既に代金も支払われてあるにも関わらず。
何故か投函されないまま、近江屋新助の手文庫にしまわれたままだったらしい。
しかも、送り主は佐々木多門であるにも関わらず、近江屋新助といつわってある。
さて、この手紙の送り先が、
松平主税様御内 岡又蔵様と書かれておるのだ。
松平主税と言えば、新撰組の元となった浪士組の取締役で、当時は講武所の師範代。
なぜ、海援隊士が??と不思議なのである。
しかも、この文章の最後のクダリに・・・。
「才谷殺害人姓名迄相分り、是ニ付キ、薩摩ノ処置等、種々愉快の義コレアリ」
なんて、書かれていて、すわ!薩摩黒幕の証拠か!と騒がれたりした。
最近では、いや、薩摩が暗殺犯を探してくれたと言う意味ではないか?なんて説にもなってる。

でもおいらなんかは不思議なのは。
この岡又蔵さんが。
「才谷」を知っていたのかなぁ??という事なのだ。
江戸の講武所にいる人が何故??と思えて仕方がない。
もちろん、講武所にも、龍馬の知り合いがいなかったわけじゃない。
ジョン万次郎や、或いは、元祖師範の男谷精一郎は勝海舟の従兄弟だし・・・。
才谷殺害人だけで、龍馬暗殺の事件だとわかるものなのだろうか?
まぁ、佐々木多門自身が海援隊にいたのだから、前の手紙で説明していたのかも抱けど・・・。
佐々木多門を幕府の密偵だとする説もあるらしい。

ただおいらは実は。
なんらかの形で龍馬と勝海舟は別れた跡も連絡を取っていたと思っている。
龍馬暗殺についても、勝海舟はものすごい早い段階でその情報を得ているし、
恐らく手紙などは焼かれてしまっただけで実際には連絡を取っていたのだと思う。
この手紙も、もしかしたら、その一環なのかなぁ・・・なんて妄想をかきたてる。

でもね。
小野寺さんの妄想はあらぬ方向にも飛び火するのだ。

以蔵は捕まって死刑になったわけだけれども。
そのさらし首を見て、親戚や近所の連中は皆、似ても似つかない!なんて言ったらしいのだよ。
これは今も土佐に口伝として残っている事なのだけれども。
だから、ひょっとして・・・政治的取引で生き残ったとか・・・
或いは、本当に以蔵じゃなくて、無宿鉄蔵というのを以蔵ということにでっちあげてとか・・・
それで以蔵が生き残って、勝海舟のつてでその剣の才能から講武所に・・・なんて妄想しちゃうのだ。
岡又蔵とは、岡田以蔵の事で、佐々木多門は海援隊の連絡係だったみたいな・・・。

まぁ、そんな可能性は限りなく低い。
獄舎の中では顔を合わせていたのだろうし。
生きているうちに首の筋肉を斬られると顔がすごく変わると言うし・・・。

それでも妄想しちゃうんだな。
江戸で、龍馬訃報の連絡を受ける岡田以蔵をさ・・・。
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2007年09月06日

ガキ大将

龍馬さんの物語を見ると、大抵はいじめられっこで寝小便タレの姿ばかりが目立つ。
確かにそれはその通りだったらしい伝承も残っているから間違ってはいない。
ただどうしても現代に生きていれば現代の感覚でモノを考えてしまうけれど。
当時の武士階級ってのは、大人になるのが非常に早かった。
十代で結婚するなんてのも別に普通の事だった。
だから、ちょっと年代的にずれているなぁと思うことがしばしばある。

恐らく、龍馬さんがいじめられっこだった時期は今の小学校低学年ぐらいまでの事だ。
寺子屋を首になった頃には、どうも龍馬さんってのはワルガキだったようにおいらには思える。
少なくても、寺子屋を首になったのは身分的に上の上士の子供と喧嘩したからだと言う。
しかも、真剣を抜いちゃったなんて話も残っているのだから普通に考えればワルガキだ。
泣きながら喧嘩するような場面を何度か見たけれど、ちょっとそうなると趣が違う。

当時は当然だけれど、義務教育なんてもんはなかった。
ようするに武士の子供たちは私塾に通って独自に勉強したのだ。
もちろん、藩が認める指南役というのもいて、個人的に通ったり塾のように集まったりもした。
どこそこで勉強したというのが当時の学歴になるわけだ。
土佐藩では上士と下士が習える塾にも差別があったそうだけれど。
龍馬なんかは経済的な面もあるし、親族に色々な先生がいて恵まれていたようだ。
その龍馬さんは結局寺子屋を首になって、剣の道に没頭する事になる。
日根野道場で、たちまち頭角をあらわしたのかどうかまでは伝説だとしても。
最終的に免許をもらえるほど強くなったわけで。
特に柔なんかも相当重視していた剣法だから、体が大きくなった事は容易に想像できる。
少なくても、経済的に恵まれていて食べ物に恵まれているし、剣術で鍛えているわけだし。
遺伝的にも体の大きな家系だから、あっという間に同級生たちよりも大きくなったはずだ。

十代の頃に詠んだ歌。
我なすことは我のみぞ知る。
・・・なんて、尾崎豊みたいに孤独な十代を思い浮かべるけれども。
体が大きくて、柔なんかで喧嘩も強いし、当然、金持ちの息子の龍馬さんは。
どう考えても、回りから頼られるガキ大将だったはずだ。

これは別に想像ではない。
その後の奇跡を見ても、年下の連中なんかが龍馬さんを頼ってたくさん脱藩したり上京してる。
饅頭やの長次郎さんだってかわいがってた気配がある。
どうも、えばりくさってるガキ大将じゃなくて。
バンカラな番長に近いガキ大将だった感じだ。
江戸で山本を逃がしてあげた経緯を見てもどうもワルガキ連中のリーダー格だったようだ。
武市はむしろワルガキ連中じゃないほうのリーダー格で、お互いを認め合ってたようだ。
それは、周囲にいる人物を見れば一目瞭然だ。
平井収二郎や、間崎哲磨なんかは武市グループだもんな。
龍馬さんはわりに身分を越えて、その辺のあんちゃんたちと楽しんでいた感じだ。

そこで以蔵だ。
以蔵も体がでかい。
腕っ節も当然いい。
腕の太さはとんでもなかったようだし。
年齢は本当は龍馬の少し下だったらしいけれど。
当然、付き合いがあった。
付き合いがあったのは以蔵が海軍塾に入ったことからもはっきりと分るわけだ。

ここからは妄想だけれども。
喧嘩の強い二人。
しかも、身分とかあんまり気にしない龍馬さん。
桂浜で相撲ぐらいしたんじゃなかろうか??
男の子だったらそのぐらいの想像はすぐにつくはずだ。
身近に、強そうなやつらが二人いれば。
どっちが強いかな??なんて、周りが騒ぎ立てるもんさ。
おいらの十代の頃だって、腕相撲やら、柔道やら、相撲やら。
体のでかいの同士でやっぱ競ったもんな。
武市なんかは、まぁ、ずっと年上だし、以蔵を道場に入門させるぐらいで関わらないだろうけどさ。

ちょっと想像しちゃうのだよ。
夕暮れの桂浜。
ワルガキ同士が。
ガキ大将二人の相撲をやんややんやと騒ぎ立てて盛り上げている姿を。

おいらはね。
そういう少年時代も含めて。
今回の舞台を創造して、涙を流しておるのだ。
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2007年09月27日

チケット速報!

チケットぴあ発売分。
20日18時の回。
21日17時の回。
SOLDOUTとなりました。
チケットぴあ分は、他日程も残りわずかとなっております。

これにより劇団扱い分も含め、
20日18時、21時17時分は前売り券が完全にSOLDOUTとなりました。
若干の当日券とキャンセル待ちは用意いたしますがご容赦下さい。

週末の公演のチケットは、以下の分しか残っておりません。

19日(金)19:00開演分 劇団扱い・チケットぴあ(また冬が来て〜IZO2~)
20日(土)14:00開演分 チケットぴあ(IZO)※残りわずか
20日(土)18:00開演分 完全SOLDOUT 当日券のみ(また冬が来て〜IZO2~)
21日(日)13:00開演分 劇団扱い・チケットぴあ(IZO)※共に残りわずか
21日(日)17:00開演分 完全SOLDOUT 当日券のみ(また冬が来て〜IZO2~)


また平日のチケットも週末のSOLDと同時に動き始めております。
あっという間になくなる場合もございますのでお早目のご予約をお願い致します。

http://zenpou.net/

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