面影の見えつる君が言の葉を かくしに祭る今日の尊さ
「まっこと大きな屋敷じゃのぉ」
溝淵が大きな声をだす。
才谷屋の斡旋で船を下りると大阪商人の豪邸に案内される。
龍馬の本家、才谷屋は土佐藩内でも豪邸として知られる。
もちろん藩外とも多少の取引がある。
徳川御三家紀州藩の専売であるはずの樟脳なども出入しているのを見た事がある。
着物は当時財産だから、樟脳は財産を守るために必要だった。
「才谷はんには、いつも世話になってます。どうぞ今日は酒宴でも」
「すまんのぉ、こんなに豪勢な食事は国でも取った事がないぜよ」
「土佐のお方は、よう飲む聞いてます。今日は見せてもらいたいんや」
「ほじゃ、遠慮はいらんのぉ」
溝淵はそう言いながらも恐縮したきり。
龍馬は、折角の馳走を無駄にしてはいけないとどんどん口に運びつづける。
大阪は商業の中心地で全国の食材が手に入るのだという。
山海の珍味が膳に並べられていく。
それでも少しずつ、溝淵も話し始めた。
商家の主人と溝淵が、大塩の乱の話を始める。
自分が生まれた頃にこの大阪で、大塩平八郎という与力が幕府に弓を引いた。
まだその頃から20年と経っていない。
主人もその頃は若く、乱に参加していたのだという。
幕府に半期を翻したという、考えられない革命に龍馬は興奮を抑えられなくなる。
「ほじゃ、大塩さんは、なんにも悪くはないじゃないかよ」
「へい、そうだったんや。あのお人は、救国のために立ち上がろうとしたんや」
「米なんぞ、買い占めておるやつを懲らしめようなんちゅう、与力がなんで責められるんじゃ?」
「結果的に幕府に弓弾くことになったわけや、しゃあないっちゃぁ、しゃあない。」
「しゃあないですませてええんかのぉ」
「皆、泣いてたで。この辺の商人皆や。あの人は命よりも大事な本を売ってまで米を買って配ってたお人や。それぐらい、あの年の飢饉は酷いもんやった」
全国的な天保の大飢饉による米不足の中、与力、大塩平八郎は、子供らに米を配ったという。
与力という立場から、商人による米の急騰を狙う悪質な買占めを知り立ち上がった。
しかし、武器などを調達している最中に密通者が現れて、幕府への造反として罰せられた。
そして事件はうやむやに葬られたのだという。
幕府に弓引くなどということ自体がまだ龍馬にも信じられない思いだった。
しかし大塩の乱以来、全国各地で大塩の檄文が読まれ、乱が多発していた。
幕府はすでに何かを失っているのかもしれないと龍馬は思う。
ただ、それがなんなのかはサッパリわからないままだ。
したたかに酔って床につくと、溝淵が、明日からは厳しい旅になるという。
旅の初日がいきなりこのような大宴会で気を緩めるなということだろう。
溝淵には溝淵なりの旅の計画もあるようだ。
道場で鍛えているとは言え長旅は初めての龍馬だ。
素直に従ったほうがいいだろうと思う。
とにかく、江戸という町を早く見たい。千葉道場を見たい。
少しでも先を急ぎたいという思いも龍馬にはあった。
溝淵は、明日、少し顔をだすところがあって、それからは旅だという。
気付けば、深く眠り、夢の中にいる。
夢の中で龍馬は、飢えてやせている子供が、大人の死体に抱きついて泣いている姿を見る。
大塩の話がそのまま、龍馬の夢に影響を与えているのだと夢の中で冷静に考えていた。
「頼もう」
溝淵は大阪を少し出た辺りの小さな道場にずかずかと入っていく。
信田歌之助という旧知の武術家だという。
剣よりも、組討や柔術に重きを置いていると言う。
溝淵と一番やると長い膠着に入る。
息をつめるような緊張感に龍馬は汗が噴出した。
二人とも強いのが手に取るようにわかった。
溝淵さんは、まだまだこの世には強い者がいると教えたいのかもしれない。
結局、信田が押さえ込み、決着がつく。
「ええか、龍馬。刀を振るのが巧いだけじゃ駄目じゃ。大事なのは体の軸じゃ」
「はい、見ているだけで、なんちゃぁ、汗が噴きよりました。」
「目の前に立てば、もっとじゃ。体の軸だけじゃないぜよ」
「何があるっちゅうがですか?」
「おんしゃに、立たせてみたくなっての」
溝淵はにやにやしている。
信田は少し笑っている。
目の前に立たないとわからないこととはなんなのだろう?
竹刀すら持たない素手の稽古、体のさばきだけの稽古ではないのか?
「やってみるかよ?」
「はい。」
立っただけで、背中から汗が噴出した。
素手である。
だが、真剣を前にしているような錯覚がある。恐怖がある。
一歩も動いていないのに、信田から何かが出てきそうな不安に襲われる。
殺気・・・訓練一つでも命を懸けているのだという事がすぐに理解できる。
隙があるとかないとか、体の軸がどうとか以前の問題としての何か。
獰猛な目をしているわけでもない。それでも、いつでも死に直面する。
そういうくらい洞穴を除くような恐怖があった。
近眼でよく見えないはずの信田の目が目の前にあるような錯覚。
溝淵が少し笑う声が聞こえる。
これだ。これを経験させたかったのだと龍馬は知る。
瞬間。
「きえええええ」
龍馬は大きな声を出して飛び込んでいた。
あっという間に宙を回り、したたかに背中を打った。
目の前に立つだけのはずだったのに。
龍馬はこの恐怖を前にして、打ち勝たなければいけないと瞬間思った。
そう思った時にはもう体が動いていたのだ。
溝淵も信田も、驚いている。
しかし、二人は更に驚くことになる。
龍馬はすぐに立ち上がり、またしても組討に行くのだ。
壁に激突し、床に叩きつけられ、したたかに殴られ、それでも立ち上がっていく。
いよいよその強情に呆れて、信田は、首を締める。
裸締めで、気を飛ばしてしまうよりも他はなかった。
気付くと、龍馬は寝かされていた。
目の前に又一人知らない男がいる。
「まぁ、大丈夫や。あかんよ、無理をしちゃ」
「あ・・・あの・・・」
「医者の楢崎将作と言います。たまたま寄ったら、倒れていてね」
「坂本さん、この人は、公家さんのお付のお医者もやってらっしゃる先生だ。」
「まぁ、打ち身には膏薬を塗ったさかい、骨も太いから平気やろ」
「先生、すみません。こんな強情で元気な男は珍しい」
「すまんのぉ、信田さ。これ、龍馬、礼を言わんか」
楢崎という医者は妙に透明な目をしている。
じっと龍馬を見たまま、ゆっくりと喋る。
「まぁ、でもなかなか見上げた根性だよ。
どうかその力をもう無茶には使わないでくれよ
お武家さんが、ウワゴトで言っていた大塩さんはね、無茶をしたんだ。
もちろん、志は高かった。男はああでなくてはいかん。
それだけの根性があるなら、耐えることも出来るだろう。
これからは、耐えることを覚えてください。
そしてどうか、あなたも大塩さんのように、国のために働けばいい。
大塩の時代はもう終わった。これからは君たちが新しい世の中を考えるんだ。
そして本当に立ち上がらなきゃいけないときをきちんと自分で見つけるんだ」
龍馬にはまだ意味がわからなかった。
ただ、後年、何度となくこの言葉を思い出すようになる。
「今は耐える時ですよ」
後年、長崎にて、妻の龍が言う。
長崎にて命を狙われ、小曾根家に預けられている頃の話だ。
その言葉に、龍の父、楢崎将作を思い出す。
龍馬は、自身の父母、妻の父母への追悼を提案し、4人の父母を小曾根家で祭る。
その日に、詩を捧げる。
奈良崎将作を思いて
面影の見えつる君が言の葉を かくしに祭る今日の尊さ
2007年12月06日
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