2007年12月26日

さてもよににつつもあるか大井川


さてもよににつつもあるか大井川 くだすいかだのはやきとしつき 




龍馬は走っていた。
土佐までの道程は東海道を選ぶ。
父が病ではないかと言う疑いもあるけれど、それよりも予定よりも早く進んで寄りたい所があった。
全速力で駆ければ息が上がってしまうので、早足よりも少し早いぐらいで走る。
梅雨がやってくる前に到着したいという思いもあった。
そして何よりも江戸で起きた様々な事を頭で考えてしまう自分を振り切りたかった。
もちろん、その後、何度も何度も走る事になるなんて知らない。

東海道の難所といえば箱根の関。
厳しい坂道が続いたが、そこすらも走り抜ける。
日根野の道場でも、桶町の道場でも、走る事は常々してきている。
車もない時代だから当然健脚だったが、道場に通う事は兵法を習う事だ。
兵法では当然、駆け足についての教えもあるのだ。
武士は腰に大小をさしているから体のバランスが崩れる。
それでも駆けられる体重移動方などは既に龍馬は見につけていた。
体幹をひねらないで、左の手と足を同時に出しながらの走法だ。

だが、龍馬にもどうにもならない場所がある。
それが掛川の大井川だった。
大井川には橋もなく、渡し舟すらもないのだ。
譜代の駿河城の外堀という位置にある大井川は、江戸幕府開闢以来、橋も舟も禁止されていた。
旅人は、腰高まである川に直接入って渡るか、人足の肩車や、馬、輿でしか渡れなかったのだ。

大井川には長い歴史がある。
氾濫を繰り返し、時には流路を変更してきた。
徳川家とかつての武田家の紛争は流路変更に伴う領地争いであったとも言われる。
それに土佐山内家を開いた山内一豊は、かつて掛川藩主だったのだ。
掛川藩主だった際に、氾濫防止、駿河城守備の為の流路変更を人工的にしたという。
その際に出来た旧路を堰き止めた堤は、今も、一豊堤と呼ばれ残っている。
土佐とも関係のある場所だった。
走りながらも龍馬は、大井川をいかに越えるか考え続けてきた。

しかし、どういう事だろう?
渡しの筏がそこに待っている。
行きにはなかったはずのご禁制の舟ではないか。

「どうなっちょる?」
「渡しのイカダでさぁ」
「ご禁制じゃなかったがか?」
「ま、ご禁制っちゃぁ、ご禁制だな。」
「罰せられるぜよ」
「まぁ、でも、丸太を組んでるだけの筏よ」
「何も言ってこんのかよ?」
「目明しなんかには筋を通してるからよ。今の所は平気だな。」
「ほうかよ・・・」
「実際、旗本なんかも京に向かうことが多くなってきてね。乗ってるぐれえさ」

黒船騒動は実際土佐にまで伝わっているぐらいだ。
その間、龍馬は江戸から一歩も出ていない。
だから、むしろ何もわからなかったのかもしれない。
一発の弾も撃ち込むことないまま、外国と条約を結んだ幕府の権威は予想以上に落ちている。
そういう事なのかもしれない。
江戸こそ最新の情報が集まる場所だと思っていたが、江戸は江戸で田舎なのだ。
ましてや、東海道筋は全て、天領や譜代の大名で固められているのだ。
そこでもどこかたがが緩み始めている。
江戸にいれば幕府は絶対だとどうしても思ってしまう。
いや、土佐にいたって数年前まではそれが当たり前だったのだ。

筏に乗り込み、川を渡る。
行きはあんなに苦労した大井川も、筏ならあっという間である。
ふと、掛川にいた頃の山内家を思う。
たった7万石の大名が、関ヶ原で大きな武勲を立てたわけでもないのに土佐24万石に加増した。
徳川家に報いる為の灌漑工事だけでなく、土佐旧長宗我部家臣を抑える事になった。
それが長い時間をかけて土佐の複雑な身分差別を作り上げている。
ふと、土佐に帰るのが厭になる。
田舎なだけではない。時代に大きく遅れている。
今でも、徹底した300年前の身分差別が続いているのだ。
世の中は変わりつつあるというのに。

山内家が流路変更し、徳川家が禁制を敷いた大井川で筏に乗っている。
濡れずに川を渡っている。

向こう岸はすぐ目の前だった。


先日申てあげたかしらん世の中の事をよめる 

さてもよににつつもあるか大井川 くだすいかだのはやきとしつき 
posted by 前方公演墳 at 20:05| 東京 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 龍馬伝説