文開く衣の袖はぬれにけり 海より深き君が美心(まごころ)
「一本!それまで!」
自分でも信じられない事だった。
とにかく昇段試験で勝てるわけがないと思っていた兄弟子たちに次から次に一本が決まる。
どういうわけか相手の動きが手に取るようにわかるようになっていた。
頭でわかるというよりも体が勝手に反応してしまう。
ただこれは強くなったというよりも、何度も繰り返し稽古をつけてもらっていたから、
兄弟子たちのクセのようなものを覚えてしまったのかもしれない。
そうだとしても、自分よりも強いと思っていた兄弟子たちに勝ち続けると驚くしかなかった。
「龍馬、おんしゃ、強くなった。もうこの道場でかなう相手はおらんよ」
権平あにさんが部屋に入ってくる。
今はもう父が隠居して国の仕事をしている大黒柱だ。
新しい殿様の山内容堂公になってから、急に国の仕事が増えた。
父は体力的に厳しくなっており、兄が代勤という形にはなっているが数年中に家督を継ぐだろう。
容堂公は元々、藩主になるような位置にはいなかったのに江戸詰の若様が亡くなって、急遽藩主となった。
藩主としての教育は普通小さい頃から江戸で教わるものだが珍しい土佐生まれの殿様だった。
開明的な若殿は近年近海に異国の船が現れる事があると聞き及び沿岸警備を強化していた。
龍馬自信も台座の土木工事の監督をした事がある。
「龍馬、吉田東洋様をしっちょるか?」
「知らんよ、誰じゃね?」
「このたび、藩の参政になられたんじゃが・・」
「ほうかよ。アシは、よう知らんキニ。それがどうかしたかよ」
「容堂様は、やはりただの殿様じゃねぇぜよ。吉田様っちゅうんは、郷士の家系じゃ」
「へ?郷士なんか?」
「いや、上士は上士なんじゃが、3代前に郷士格から出世された家系じゃ」
「そうなんか?」
「じゃから、親戚には郷士もおるし、吉田様も身分問わず、学問を教えたりしちょる」
「なんちゃぁ、わからんけど、そんなこともあるんじゃのぉ」
土佐の身分制度は厳しい。
郷士は殿様に拝謁さえ許されてはいない。
家系がしっかりしており、功績のある場合上司に取り立てられる事もあるようだがごくまれだという。
坂本家も、元は農家であり、商家になって藩の財政などに尽くして来た結果、苗字帯刀を許された。
それでも、坂本家は郷士格で、やはり上士には頭が上がらない立場だった。
その郷士出身の吉田東洋が藩の最重要な役目についたというのは大ニュースだった。
今、日本中で、外国問題が少しずつ吹きはじめている最中の事で開明的な殿様は国学に詳しい吉田東洋を大抜擢したのである。
「それでの、おんしゃ、部屋住みの次男坊じゃ。このままじゃ一生アシの世話になる」
「うん、まぁ、そうじゃの」
「婿養子に出すッちゅうことも出来るがの」
「まぁ、なんでもええよ。アシはまだなぁ〜んも考えちょらん」
「そうもいかんがじゃ。19ともなれば誰でも考えるんじゃ。たまたまうちは裕福じゃからノンビリでける。」
「まぁ、それならそれでえいじゃろ。」
「でな、父上が、東洋様着任と同時に、おんしゃの修行願いを出してくれたんじゃ」
「修行願い?」
「ほうじゃ。19で免許皆伝なんぞなかなかでけん。上様も東洋様も武術奨励をしちょる」
「修行って、どこで修行するんじゃ??」
「江戸じゃ。おんしゃ、江戸で剣術修行しちゃれ。免許でも取れば道場を持たしちゃる」
「江戸?江戸って、あの江戸かよ・・・郷士の次男坊じゃぞ」
「それがのぉ、許されたんじゃ。これは、坂本家にとっても名誉じゃき!」
江戸への剣術修行など、それまで郷士が行くなんて考えることすら出来なかった。
やはり新しい殿様になって何かが変わっているのかもしれない。
江戸で強い剣士となって道場を開くのも悪くはない。
それにしても、江戸とは余りにも遠く、余りにも驚いた。
「実は日根野道場から言ってきてくれよったんじゃ」
「先生から?」
「ほうじゃ、もう道場じゃ一番強いキニ、どうせならっちゅうてのぉ。アシも驚いたぜよ」
「ほじゃ、もうきまっちょるんか?」
「まぁ、もっと早く言いたかったんじゃが。ようやく江戸の千葉道場からの返事が来よっての」
「千葉道場・・・って、あの北辰一刀流かよ?一流じゃ・・・」
「ほじゃ。紹介状も書いてもらっちょる。藩からの許可も下りた。同行人もきまっちょる。どうじゃ?」
「・・・同行人??」
「おお、説明しちょらんかったな。驚くぜよ」
「誰じゃ?」
「溝淵広之丞様じゃ」
「・・・・。誰じゃ?」
「し・・・知らんのかよ。」
「ええか、恐らく、藩内では適う者はおらんじゃろ。郷士じゃが、ほんに強い。
島田のおんちゃんとどちらかが最強じゃろて、誰もが噂するほどじゃ。
武術の奨励から、その溝淵さんを江戸に送ることになっちょっての。
ほんで、おまさんも、一緒にっちゅうことで初めてお許しが出たんじゃ。
実はの、アシも、何度か喧嘩した事があるんじゃが、やられてしもうた。
あん人が負けたっちゅう話をこれまで聞いたことがないぜよ。
なぁに、普段はもの静かな人での、全然、そうは見えんのじゃ
一緒に旅をするだけでも、ええ経験になるじゃろ」
土佐はまだ広い。
島田のおんちゃんの居合を見た時にそう思った。
権平あんちゃんも、やはり強かったけれど、島田のおんちゃんは怖いほどの早さだった。
その島田のおんちゃんと並び賞される剣客が土佐の郷士にはいるという。
しかしその土佐を大きく飛び越えて、日本中の剣士が集まる江戸への修行なのだという。
自分が強くなったと言われても、まだまだなのだと思う。
強くなっても強くなっても更にそれより強い男が現れる。
道場を開く事よりも、強いという事に龍馬はどんどんのめりこんでいく。
「ほじゃ、溝淵様、よろしくお願いしますキニ」
「いえいえ、旅銀まで坂本殿には世話になっちょリます。頭を下げるのはこっちじゃ」
「龍馬は粗忽じゃき、迷惑をかけることもあると思うちょリます」
「まぁ、男子二人の旅じゃ、なんちゃぁないぜよ」
「龍馬、これをお前に渡しちょく。よう心にとめおくように」
本当に強いのだろうか?
小柄な体で、物腰も柔らかい。
それでいて常に笑顔だ。
父上に渡された手紙も読まずに、龍馬は旅の途につく。
四国はおろか、土佐すら出たことのない若者は、これからのことで頭がいっぱいだった。
才谷屋の周旋で船に乗る。これから大阪まで出る。
お乙女あねさんは、もう涙目になっている。
「ほじゃ、行ってくるキニ」
船の中で、父上の手紙を開く。
そこには、いつも聞かされている小言が3か条したためてあった。
ふと船の上から今来た方向を振り返ると、須崎港を出た辺りでもう高知城も小さくなりかけていた。
ふいに、龍馬の中でこれまでの父上やあにさん、あねさん、トモダチの顔が浮かぶ。
さっきまで、旅に出ることでいっぱいだったのに、急にこれまでのことでいっぱいになる。
胸がいっぱいでいっぱいで、詰まったような気分。
父上の小言をもう一度読んだ時に、どれだけ父が心配を重ねているかが染みてくる。
泣かないと決めた日から泣いていないから、無理矢理前を向き、海を見た。
顔を袖でぬぐう。泣いていないはずだ。
父上の手紙を丁寧にたたんで、懐にしまう。
懐手にして船のへさきに立つ。
「強くなるキニ」
大声で龍馬は海に叫んでみる。
波の音が返すだけ。
溝淵さんは笑ってる。
文開く衣の袖はぬれにけり 海より深き君が美心(まごころ)
